20100208
シデ蟲狂ヒ歌 (初出 20090501 改訂 20100208)
典子は少々神経質な女だった。その神経質な言動にたびたび苛立ちを覚え、僕は何度も典子と口論をした。
「私が神経質? あなたが無神経で鈍感でずぼらだからそう見えるだけよ」
そんな言い分に、毎回僕は絶句させられる。そう口角泡を飛ばしている典子の表情は細かく痙攣していて、神経質そのものなのだが、僕にはもうそれを指摘する勇気も気力も無くなってしまった。
神経質の神様は、典子の心を僕とはずいぶん離れたところに隔離してしまった。そして典子に服の畳み方だとか、部屋の掃除の仕方、整理整頓を毎日要求する。ある日、掃除の邪魔と言って典子は僕に濡れ雑巾を投げつけてきた。部屋の隅に座っていたのだが、角が掃除できないと腹を立てたらしい。
典子との距離が段々遠くなってゆく。同棲を始めて三ヶ月、僕の神経のほうが先に参ってしまいそうだった。
※ ※ ※
軽いノイローゼではないのかと思った。
典子が不調を訴え始め、しょっちゅうこめかみを押さえるようになり、塞ぎ込みがちになるに至って、僕は典子に病院に行きたまえと言った。
典子は力なく首を横に振った。「医者なんかに視えるものですか」と、か細い声で言いながら。
――視える、とは何のことだ。
このときは深く追求はしなかったが、日を追うごとに典子は、「視える」「視える」「あなたには視えないの?」とおかしなことを口走り始め、以前にも増して掃除に念を入れ潔癖を保とうとした。
下手なことを言って衰弱した典子を刺激しないように、僕は黙って掃除を手伝い、注文された薬剤や洗剤を買い込んだ。だが、典子の表情は険を増す一方で、衰弱しきった目元だけがぎらぎらとおかしな光を放っていた。
「シデ蟲」
は? と僕は間抜けな声で聞き返した。
「だから、シデ蟲だってば」
虫? この寒い時期に虫なんて部屋に入ってこないだろう。そもそも毎日念入りに掃除して水周りも清潔を保っているのに、虫なんて湧くはずがない。
そう言おうとして、典子の目を見たとき、背筋に冷たいものを感じた
典子の目の虹彩は細かく動いていた。まるで周囲に虫が這っていて、その行方を追うかのように。
次の日、僕は会社を休み、典子を病院に連れて行った。
心因性の神経症です。そう告げられて、僕はやっぱりと目を伏せた。そもそもあの神経質さもおかしかったし、僕が譲歩して典子に合わせているにも関わらず、ついには虫がどうとか言い始める。間違いなく、これは典子の心のバランスの問題だ。
何がきっかけになったのかは分からないと正直に告げ、とりあえず精神安定剤を処方してもらった。
だが、典子は投薬を拒否した。
「何で私にシデ蟲の卵を飲ませようとするの!?」
怯えた声でそう言い、僕と薬を激しく拒絶した。そして洗面所に駆け込むと手を洗い始め、嘔吐した。
※ ※ ※
二週間が経ち、典子の症状と八つ当たりに疲れきった僕はあまり部屋に帰らなくなっていた。飲み屋で知り合った安い女のアパートに転がり込み、そこから会社に行っていた。
こんな僕を典子は咎めるだろうか。いや、咎められる謂れは無い。文句を言いたいのはこちらの方だし、僕はできる限り典子に尽くしてきた。にも関わらず、部屋に帰らなくなった僕の携帯電話には、典子からの着信は一件も無い。
知り合ったばかりの頃の典子に戻ってほしいという願いも、段々と希薄になっていった。目の前の、安いが若い女の身体に夢中になっている内に、典子に対する望みの一切合切が虚ろになってゆくのを感じる。一緒に暮らそうと言ったあの頃の僕がひどく愚かしく思えてきて、僕は女の身体を貪りながら涙ぐんでいた。
※ ※ ※
僕は意を決し、典子に別れを切り出そうと、かつて僕が典子と住んでいた部屋へと向かった。
典子はちゃんと食事を摂っているだろうか。僕の荷物なんかとうに捨てられているのではなかろうか。そんなことを考えながら歩く足が鉛のように重たくて、僕は少しだけ涙ぐんだ。
典子、居るよね? 入るよ。と声をかけ、僕は部屋のドアを開けた。
途端、目の前に広がる異常な光景に、見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われる。しばらく二の句を告げることができなかった。部屋の奥から典子が顔を出し、生気の無い窪んだ眼窩で僕を見据え、歪んだ笑いを顔に浮かべた。
銀箔が部屋全体を覆っていた。銀色の空間。壁も床も銀箔に覆われ、窓も完全に目張りがされてあった。部屋の中には駆虫剤が散乱し、部屋に閉じ込められた臭気は頭痛と吐き気を催させた。
「こうしておくとね、シデ蟲は産卵できないし、巣を作ることもできないの」
典子はいびつな笑いを顔に貼り付けたままそう言った。
「知ってた? あなたが帰ってこなくなってから、私はずっとシデ蟲を駆除し続けていたのよ。隙間という隙間、隅の隅まで綺麗に掃除して、一人で頑張って銀箔を貼ってさ」
絶句したままでいる僕に、典子は嬉しそうに話しかける。
僕はただ首を振って、典子、ごめん、僕さえしっかりしていれば。と涙声で言った。
典子はきょとんとし、プッと吹き出すと乾いた声でカラカラと笑った。
「何を言ってるの? あなたは悪くない。悪いのはシデ蟲。シデ蟲がさ、ぜーんぶ悪いの。あの性悪蟲が。蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲が! 蟲がッ!」
蟲蟲蟲と繰り返す典子はもう僕が知っていた典子ではなかった。僕はきびすを返し、この場を足早に立ち去った。
その数日後である。僕と典子が住んでいた部屋から出火し、無残にも焼け落ちたとの報せを受けたのは。
――虫を駆除するには、火か。
典子はそう考えたのではなかろうかと思い、目を瞑った。
先程から、首筋が痒い。
20100204
林檎の匂う屋根裏の地獄 (初出 20090404 改訂 20100204)
ミチルの舌はざらざらとしていて、肉食獣のそれに酷似していた。僕の胸を舐めるとき、首筋を舐めるとき、必ずミチルは僕の顔を上目遣いに覗く。僕の表情から僕の生存を確かめようとする。僕は目を逸らし、そして決まって天井を眺め屋根裏の地獄を想う。あの戯曲家が作った、知ってはならない地獄に思いを馳せる。
「あなたの詠んだ詩が買いたいのです」
そう言ってミチルと名乗った女性は微笑んだ。
僕の詩作の趣味を知っている人間はさほど多くはない。だが、少数の知己には色々とコネがあり、この女性はそのツテで訪れたのだろうと察し僕は彼女を家に上げた。
ただ微笑んでいるだけで一向に用向きを切り出してこない彼女を不思議に思いながら、チープな粉っぽい味わいのインスタント・コーヒーを二人分デスクに並べる。趣味人として親の遺産で暮らしている身ではあるが、ただ無駄に時間を浪費するのも馬鹿らしいので、僕の方から彼女に「僕の詩が買いたいとは?」と話を切り出した。
「墜落するイカロスは遠ざかる空を見ていたのか、迫り来る地面を見ていたのか」
唐突に彼女は僕の詩を暗謡した。まるで呼吸するように滑らかに。
「この詩で、私はあなたに興味を抱いたのです」
ごく内々で発行している会誌に載せた一行詩をなぜこの女性が知っているのだろうか、と僕は少々薄気味悪いものを感じた。だが、何故、と訪ねてはいけないような、詮索することが卑しく感じられるような、そんな空気が彼女の周囲に醸成されていた。その中性的で整った顔立ちがまた微笑む。
「あなたの言い値で買います。私のために詩を詠み続けて下さい」
その後、どういう遣り取りをしてどう決着をつけたかはさして重要ではない。重要なのは、僕とミチルが間もなく同棲を始めたということだ。彼女の素性はいまだに一切知らない。知っているのは、彼女が林檎が好きだということと、彼女の肌の触感だけだ。
部屋の歩けば足跡が残るような埃を掃除し、食器も二人分揃えた。水周りも綺麗にし、ついでに屋根裏も掃除してしまおうとするとミチルは僕を止めた。
「見えない所は見ないでいいの。見ないまま、知らないままにしておくこと。地獄なんて見ない方がいいし知らない方がいい」
それは誰の戯曲の一節だったかな、と訊くと、ミチルはある戯曲家の名前を口にした。僕は「ああ」と納得し、屋根裏を見てはならないというミチルの主張にも何故か納得した。
ミチルと同棲を始め三ヶ月が経った。
暗い部屋の中、ミチルが林檎をかじる音が心地よく響き、僕はいつも決まって眠りにつく。目が覚めれば僕は裸になっていて、ミチルの冷たい肌が僕の上に覆い被さっている。林檎の匂い。エデンの禁じられた匂い。夢うつつのまま、ミチルのざらざらとした舌を首に、胸に、腹に感じていた。
今日も僕はミチルの舌を感じながら天井を仰ぐ。見なくてもいい屋根裏を想う。まだ知らぬ地獄を思索する。
右手で自分の喉を掴み、思い切り力を入れてみる。呼吸が止まるのをじっと待つ。
――やはり無駄だな。
呼吸なんてとっくに止まっているに決まっているのだ。天井から自分の身体に視線を移す。
ミチルに舐め取られた肌と肉。
弾けた柘榴のように露出した内臓。なかば白骨化した腕。
痛みはなく、ただ眩暈と恍惚の痺れがあった。赤く染まったミチルの口元と舌が今夜も少しづつ僕の肉を削いでゆく。
知らなくてもいい屋根裏の地獄を想いながら、あの戯曲は屋根裏に棲まう魔物の劇詩だったかなとふと考える。戯曲通りに魔物を愛し、愛に斃れ。
そうありたいと強く願ったならば、こんな身体で生き延びてゆくことも神様は許してくれるだろう。
20100203
花とクロスボンバー (初出 20090309 改訂 20100203)
「ええいっ嘘をつくなロミオっ! 卿(けい)は嘘をついているっ!」
シズ江は大仰に、眼前をぴしゃりと指差してそう叫ぶ。途端、指差された二人の女子は破顔した。
「ちょっとちょっとちょっとォ! 何それ! もしかして『銀英伝』入っちゃってるゥ!?」
「し・か・も! 獅子帝ラインハルト様のお言葉ときた! 金銀妖瞳のロイエンタールでも疾風ウォルフでもなくて、ラインハルト様! ちょっとあなた自分の分際をわきまえなさいよ。寮のベッドの下のあなたの同人誌、ぜんぶ寮管のばばあにバラしちゃってもいいことよ?」
「えっ、シズ江の同人誌って、あのラインハルトとキルヒアイスがエグい角度で下腹部同士で接合しちゃってるやつゥ!?」
そして二人は両手を口にあて、首を小刻みに振りながら「おっほっほっほっほ」と笑い合う。一方、顔を真っ赤にしたシズ江は瞳に涙を滲ませ、握り締めたげんこつは恥辱の極みに揺れていた。演技を馬鹿にされたことよりも、寮に隠し持っていた同人誌の存在がバレていたことの方がショックだった。今すぐ「ファイエル!」と雄たけびをあげ、目の前の二人を砲撃し消し去りたい、そんな気持ちでいっぱいだった。そんなシズ江の殺意の波動に気付くべくもなく、いい加減に笑い終えた二人、マサ子とヨシ美は二人そろってくわっとシズ江を睨みつける。
「シズ江さぁ。うちのクラスさぁ、今どき学祭で『ロミオとジュリエット』なんて演らなきゃいけないのわかってるよね?」
「しかも脚本にオリジナリティを盛り込みなさいって委員長からのお達し……あのブスだきゃあ今度三回殺す。親が見ても我が子と判別できない死体に変えてやる。それはともかくとして、シズ江。あなたちょっとジュリエット役としての自覚が足りないんじゃないの?」
何が自覚だ。ジュリエット役を私に押し付けたのはあんたら二人じゃんか。シズ江はそう強く言い返したかったが、我がクラスの風神雷神と恐れられているマサ子とヨシ美に口撃できる度胸は、シズ江には無い。以前、東北から転入してきたおかっぱの転校生が、倫理の小テストで零点を取ったマサ子に対し「あはは。ばっかでー」と言ったことがあった。その日のうちに転校生の椅子には画鋲が撒かれ、ノートには血文字調で「風神の判決を言い渡す。死刑」との落書きが成された。次の日の体育の時間には、教師の目を巧妙に掻い潜ったマサ子とヨシ美のコンビネーションによる肘打ちと膝蹴りが転校生を痣だらけにし、その次の日には、寮の転校生の部屋の前でマサ子とヨシ美は一晩中『ドグラ・マグラ』を朗読した。その翌日、東北からきた転校生は「チャカポコチャカポコが耳から離れない」と泣きながら東北へ帰った。その時のマサ子とヨシ美の清々しいまでのガッツポーズをシズ江は今でも覚えている。ぶるるっ。
「聞いてんの? シズ江」
ハッと気付くとマサ子の顔がシズ江の眼前数センチに迫っていた。シズ江はツツツっと後ずさる。背中がドンっと何かに受け止められる。振り向くと、いつの間にか背後に回り込んでいたヨシ美に羽交い絞めにされていた。ああヤニ臭いっ。
「あんたさぁ。最近ナマイキなんだよね」
瞳に暗い炎を宿しつつ、マサ子は噛み締めるように言う。
「ほんのちょっっっっっぴり男ウケがする顔だからってさぁ、変に調子に乗ったりしないでよね。801星人のくせに」
やおいせいじん? 違う。私はボーイズラブ愛好家なのであって……と言いかけたシズ江の口に、唐突に何かが突っ込まれた。
「知ってる? ねじりん棒」
自分の口に突っ込まれたものが絞られた雑巾だと気付き、シズ江は慌てて吐き出した。唾液と涙がシズ江の顔を伝う。何で。何で私がこんな目に合わされないといけないの。ラインハルト様……キルヒアイス様……助けて……怖い……!
「マサ子ぉー。シメちゃおっか? コイツ」
「いいねぇー! ヨシ美的にはどんな処刑方法がお好みかしらん?」
ヨシ美はうーんと小首を傾げる。そしてポンと手を打つ。続いてブッと屁をこいた。
「クロスボンバー! 久しぶりにマスク狩りしちゃおしちゃおっ!」
「きゃーヨシ美ってば冴えてるゥ! そこに痺れる憧れるゥ! じゃー私ネプチューンマンね! ヨシ美はビッグ・ザ・武道!」
そしてシズ江を中心に直線上に距離を置いたマサ子とヨシ美は右腕を高く掲げ叫ぶ。
「マグネットパワープラス!」
「マグネットパワーマイナス!」
「クロスボンバー!」二人は同時にダッシュした!
シズ江はヒッと叫ぶと頭を抱えてしゃがんだ。
衝撃音。やがて静寂。
シズ江は恐る恐る見上げた。
マサ子とヨシ美の互いの喉元に、互いの豪腕がめり込んでいた。
白眼を剥き、口から泡を吹きながらマサ子とヨシ美はドサっと倒れる。
呆然と立ち尽くすシズ江。ふと、金髪と赤毛の二人の美青年の気配を感じて振り返る。ああそうだ。ジュリエットにはロミオが居るんだった。
シズ江はその場でバレリーナのようにくるりと一回転した。スカートがふわりと浮き、それはまるで花のよう。
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1953ColdSummer
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